紫微斗数の起源とインドとの関係
紫微斗数は中国生まれではなかった?
1. ルーツは唐代に伝わった「インド占星術」
紫微斗数の歴史を紐解くには、唐の時代まで遡る必要があります。当時、アラブ帝国が版図を拡大し、唐との間で貿易や技術の交流が盛んに行われていました。この流れに乗って、アラブを経由し、古代インドの占星術が中国へと持ち込まれたのです。
当時の人々は、この輸入された占星術の精度の高さに驚き、「琴堂派(きんどうは)」という流派を形成しました。これを中国風にアレンジしたものが「七政四餘」です。
「七政」とは、太陽・月と五惑星(木火土金水)を指します。これは西洋占星術や現在のインド占星術と非常に近いシステムであり、緯度や経度を計算してホロスコープを作るものでした。
2. 仏教弾圧が生んだ「異文化の同居」
では、なぜインド占星術が、現在のような「紫微斗数」へと変貌を遂げたのでしょうか? そのきっかけは、唐代に行われた大規模な「廃仏(仏教弾圧)」にあります。
唐の皇室は、老子を祖と仰ぐ道教を保護し、勢力が強大になりすぎていた仏教を弾圧しました。行き場を失った仏教の僧侶たちは、生き延びるために道教の寺院に身を隠し、道士のふりをして生活することを余儀なくされました。
この奇妙な共同生活の中で、化学反応が起こります。
- 僧侶たち: インド伝来の「占星術」の知識を持っている。
- 道士たち: 「易経」や、兵法から派生した「風水」「奇門遁甲」の知識を持っている。
彼らが互いの知識を交換し合うことで、インド占星術と中国の易・兵法が融合し始めたのです。
3. 明の皇帝が求めた「国家公務員のための統一システム」
明の時代になると、紫微斗数は国家的なプロジェクトとしてシステム化されます。皇帝は、国の運営を占うシンクタンク(欽天監)を組織していましたが、占い師によって言うことがバラバラでは困ります。
そこで明の皇帝は、当時優れていた二つの系統を統合し、欽天監(国家公務員の占い師)を教育するための統一カリキュラムを作成しました。
- 太乙金(たいいつきん): 易経の九宮を用いたシステム。
- 数天機(すうてんき): 計算によって天からのメッセージを解読するシステム。
これらを統合して完成したのが「紫微斗数」です。よく伝説では「陳希夷(陳摶)という仙人が作った」と言われますが、彼は不老不死の薬を作ることに夢中だった道士であり、実際には明の皇室が民間の技術を吸い上げ、システム化したというのが実情のようです。
4. 「円」から「四角」へ:天文学からの脱却
非常に興味深いことに、明の中期以前まで、紫微斗数の命盤(チャート)は西洋占星術と同じく「円形」でした。しかし、明の中期以降、現在私たちが目にする「四角形の12宮」へと変化しました。
この改良には、二つの大きなメリットがありました。
- 天文学的計算の簡略化: 緯度や経度を細かく計算する必要がある占星術から、法則に従って星を配置するシステムへと変化させました。
- 「第六感」の排除: 易経占いは術者の直感(霊感)に頼る部分が大きいですが、紫微斗数は「星がこの宮にあればこうなる」というロジックを確立し、誰が占っても同じ結果が出るようにしたのです。
5. 清王朝で完成
清の時代になると、紫微斗数はさらに進化し、巨大な体系となります。 皇帝のあらゆる悩みに答えるため、「奇門遁甲(方位術・兵法)」や「風水」の理論までもが、紫微斗数の中に組み込まれました。
しかし、あまりに巨大なシステムになったため、皇室の専門家以外が全てを習得するのは困難でした。その結果、民間へ流出する過程で「星しか知らない流派」「四化しか知らない流派」といった具合に、部分的な知識だけを持つ流派が乱立することになったのです。
お読み頂きありがとうございました😊
最近、私の本が難しすぎるとかなり攻撃的なクレームをわざわざLINEで入れて来られる方がいます。
講座を受けていらっしゃる方では無いはずで、運用法の事もご存知無い方なので、私と日々やりとりしている方ではありません。
今日ご説明した通り、紫微斗数は元々難しいもので、簡単に分かって実践出来てしまったら皇帝が何人も出てきてしまいます。
「手取り足取り、教科書通りに書いてくれないと分からない。」「色々な流派が入って分からない。」というマニュアル人間の方にこれからも合わせるつもりは全くないので、申し訳ありません、そのような方は私の発信は見ないで下さい。
🙇♀️
原典:https://ameblo.jp/jellypop-2020/entry-12955640347.html